目を閉じれば瞼の裏に甦る戦場の風景。
 それは、負傷者の呻き声、火薬や鉄の匂い、血の赤、赤、赤。今の私は思い出すだけでもこんなに恐怖し、吐き気すらするというのに、あの時の私はまるで別人のように力強く地を踏みしめていた。勿論、全く怯まなかったと言えば嘘になるけれど。戦場の空気に酔っていた、とでも言えばいいのだろうか――

 一旦言葉を区切れば、ひどく落ち着いた声が頷くように私の耳へ響いてきた。

「戦場酔いをしたか」

 私の方に目をくれるわけでもなく、ぼそりと静かに呟かれた言葉。そして座布団の上に座りながら私の話に耳を傾けていた男の視線に促されるまま、私の口からは次々と言葉が零れ落ちてきた。

 ――しかし自分の命が狙われて、生まれて初めて目の前で人が殺し合うのを見て私の「酔い」は醒めてしまった。襲ってきた恐れや震えは自分ではどうしようもなくて。それを石田さんは、私を本気で一喝してくれた。言葉の一つ一つが、あれから数日経った今でも私の胸の中に残っている。確かに、知らず知らずの内に私はタイムスリップしてから自分の存在を認めてくれる人を探していた。此方側には、しかしその「認めてくれる人」は、此方に来てから豊臣軍しか知らない私にとって自ずと限られてくる。言わずと知れた総大将の豊臣さん、その親友であり豊臣軍の軍師である竹中さん、歴史上でも名高い家康さん。

 そして、石田さん。私は、少なからず彼に救ってもらった。それに彼は指揮を執っていた私を護って負傷したのである。あの日から石田さんには専属の医者が付いており、安静を命じられていたため部屋から出ているのを見たことがない。
 私は、石田さんに会って謝らなければならない。お礼を言わなければならない。豊臣さんにその旨を話せば彼の部屋の場所を教えてもらうことが出来たのだが、ずっと出入りを軍医に断られていて、今日、やっと了承を得たのである。

「成程な。それでこの部屋にやって来たか、娘」
「・・・はい」

 入っていいですか、と部屋の中へ問うてみれば返ってきたのは記憶の中の声よりも幾分か低い声音で、恐る恐る入ってみたら声の主は体中に包帯を巻いて静かに座していたのだ。思わず言葉を失った私に「三成は鍛練に出た」と男の人は勘違いを察したらしく、淡々とした口調でそう言ってから「我は大谷吉継と言う」と名乗ってくれた。失礼だが、体中の包帯といい雰囲気が少しホラー気味である。

 きっとそれなりに位がある人なのだろうと失礼にならないように正座して自分も自己紹介をしたら、大谷さんは「三成に何用だ」と静かに問うてきたので――やはり失礼にならないように、出来るだけ詳しく話したのである。鍛練に出た所、という事は暫く帰っては来ないだろう。また改めて来させて頂きます、とその場を立ってそう言おうとすれば、またしても察したらしい大谷さんは「暫し此処で待っておれ」と私を引き止めた。

「なに、気にせずとも間もなく帰ってくる。挨拶に行った先の御仁に寝ておれと叱られてな」
「・・・・・秀吉様ですか?」
「そなたは豊臣さん、とお呼びしていると聞いたが?」
「え、あ、まあ・・・その、今更様付けは逆に呼び難かった、と言いますか・・・」

 現代では教科書の肖像画に向かって散々「豊臣秀吉」とフルネームで呼び捨てしていたし、だからと言って本当は様付けがいいのだろうがその場の勢いもあって現代での癖でつい「豊臣さん」と呼んでしまったのだ。その旨を話してもいいのだが、なんとなく言い辛くて。はは、と乾いた笑みを浮かべながらしどろもどろにそう言った私であったが、そういえば何故初対面の大谷さんが私の豊臣さんの呼び方を、と不思議に思って湯呑みの茶を飲んでいる目の前のその当人に聞いてみることにした。
 「ああ、それは三成が憎々しげに言っておった故」 大谷さんはあっけらかんとそう言うと、ふっ、と包帯の隙間から覗く瞳を面白そうに細めた。妙に「憎々しげに」という言葉にリアリティを含ませていたように感じられたのだが、恐らく気のせいではないだろう。秀吉様万歳な石田さんなら、きっと私のような小娘が様付けで呼ばないことに腹を立ててもおかしくない。「そうですか」と思いの外私の返事は疲れたように力無いものとして口から漏れた。

「・・・見ておれ、戸が開くぞ」
「え」

 言われた通り大谷さんの視線を辿って襖の方に視線を移すと、間もなくそれは開いていつもの無愛想な表情を浮かべた石田さんが部屋に戻ってきた。本当だ、と思わず口から出た驚きの言葉に大谷さんは少しだけ得意気な笑みを漏らす。まるで他人事のように、もしかするとこの人はいよいよ本物のオカルトな人なのではないかと、頭の端にそんな考えはふっと浮かび、消えた。そして石田さんはと言うと、その切れ長な瞳の眼光を視界に私を入れた途端に更に鋭くして不満気に表情を顰めた。
 何故此処に居る、と言いたげである。

 石田さんはその表情のまま説明を仰ぐようにして大谷さんの方に目を向けた。すると、大谷さんは特徴的な「ヒヒッ」という笑みを溢して「それは本人から聞けばよかろ」と彼に返した。それに益々眉を顰めた石田さんの突き刺さるような視線を知ってか知らずか、大谷さんは楽しそうに「我はそろそろ部屋に戻るか」とまるで然も独り言のように呟くと座布団に座ったまま、ふよふよと浮いて部屋を出て行ってしまった。
 あ、オカルト。
 正直、困惑する気持ちよりも大谷さんの明らかに奇妙な移動手段についてへの興味の方が勝ってしまいそうなのだが、それはまた後で聞く事にする。此処をこのまま去るには、石田さんの視線が痛すぎるからだ。

「・・・あの、」
「礼など要らん。況してや詫びなどがその口から出れば斬るぞ」
「す、」

 すみません、と言いかけた言葉を慌てて呑み込んだ。取り付く島も無い、というのはまさにこういった状況の事を言えばいいのだろう。私が謝りかけたのを察したらしい石田さんが、ほんの少しだけ口角を上げて「何か言いかけたようだが?」と言った。一瞬の笑みに私が瞳を瞬かせると、既に彼の表情はいつもの無愛想なそれで。気のせいか、と思いつつもその表情はなかなか頭から離れなかった。

 どうしたものかと模索する私の目は、室内のあちらこちらを彷徨う。唐突だが、石田さんの部屋は現代人である私の目にはひどく殺風景に映りがちである。それなりの位に就いているのだからきっと屋敷は持っているはずだし、この部屋はこの豊臣さんの城での単なる寝床に過ぎないのだろう。が、いくらなんでも物が無さ過ぎる。というか私の中のイメージでは屋敷でさえ何も置いて無さそうなのだが。
 礼を言うな、謝るなと言われてしまったのに私はどうすればいいのだろうかと、頭の中で必死に模索していれば、やがて良い考えが浮かんできて。私は、此方の時代に来てから――文化の違いがあるため、入浴の仕方やマナーについてなどを書き留めておくためにいつも持ち歩いているメモ帳と三色ボールペンを懐から取り出すと一枚メモを千切って、そこに出来るだけ綺麗な文字で言葉を書くと、二つ折りにして石田さんに渡した。

「・・・何だこれは」
「いや、石田さんは言うなって仰ったので紙に書いたんですけど。何か問題ありますか」

 本当に良い事考えた、私。私はしてやったりと思いながら、手渡した紙を睨んでいる石田さんの様子を窺った。むっと不服そうに歪められた表情に、私は心の中でガッツポーズをきめる。眉をぎゅっと顰めているその様は、本人にはとても言えないが拗ねている子供のようで。堪え切れずに思わず漏れた笑いに、石田さんは此方を恐ろしい形相で睨むと地を這うような低い声音で言った。

「貴様・・・・能無しの分際で生意気だぞ」
「のっ!?またそれですか・・・?私にはっていう名前があるんですけど!」
「知らん。その五月蝿い口を縫い付けて欲しくなければ黙れ能無し」
「お願いですからその紙読んで下さい!・・・私には少なくとも礼儀があるって気付けますから」
「断る。・・・・・・・そもそも貴様の文字は解せん」

 出来る限りはこの時代のそれに近付けつもりだったのだが、やはり四百年も時代の壁があると文字は大分変わってしまうらしい。「無理だ」と言われた時は何か言い返そうとしたが、付け加えられた言葉に私は押し黙る他無かった。こう書いている、と言えば良いのだろうが、何せ先程礼と謝罪の言葉は拒否されてしまっている。

 はあ、と溜息を吐くと、この際どうでもいいという気持ちになってしまった私は石田さんの部屋を出て行こうとその場に立った。本当は此処で何も言わないでおくというのは私の理に反するのだけれども、こればかりはどうしようもないの一言に限る。もとより、自己犠牲と言う言葉を嫌う私と豊臣さんに献身的な彼とでは元から馬など合うはずもないのだ。

 そもそも、こうして頭を下げに来た私に対して彼は「斬る」なんて物騒なことを言って拒絶したのである。あの時、私は彼に精神的な意味でも身体的な意味でも間違いなく助けられた。それは最早、何度礼を言っても足りない位の借りなのに。
 襖に手を伸ばした私に、背後から「待て」という声が掛かった。その声は、僅かに不満そうなものを含んでいる。振り返って見た石田さんの表情は、先程より更に深く眉間に皺を刻んでいた。

「此れで帰れば、貴様が此処へ来た理由は何になる」
「強いて言うなら大谷さんとのお茶会でしょうか」
「人の部屋を勝手に茶室にするな。貴様は本当に能無しだな」
「何度目ですか、それ言うの!」
「・・・・・皆まで言わねば分からぬ貴様など、能無しで十分だ」

 そう言うと、無言で自身の掌の上にある紙を忌々しそうに睨んだ石田さん。ああ、成程とそこでようやく私は察したわけなのだが。「口にしたら私斬られるんでしょう?」 少し皮肉混じりにそう言えば、石田さんは「礼儀があると気付けると言い出したのは貴様だろう」と尚更不機嫌そうに表情を顰めて見せた。要するに、口に出しても大丈夫だということなのだろうか。(なら最初から「礼など要らん」とか言わなければややこしくならなかったのに、と思ったのは内心だ)

 無言で目前に突き出された紙を私もまた黙って受け取ると、先程折り畳んだばかりのそれを広げた。「えっと」 ・・・何故、先程から彼はこんなにも私の予想外な言動をするのだろう。ふと石田さんのほうを窺うと、切れ長の二つの目がただ静かに此方を見ていた。あまりにも冷めていて真っ直ぐ過ぎるその視線に、なんとなく紙に書かれた文字を読むのが躊躇われてしまう。気付いてしまった途端に、私の口から次の言葉が出てくることは無かった。

「・・・おい、何を黙っている」
「いえ。なんでも、ありません」

 お礼を言いに行かなければと思い立った時や、紙に素直に言葉を書いた時はあまりこんな羞恥の感情なんて感じなかったのに。それもこれも、無言で読むように催促する彼や、今のこのただ静かな空気が悪い。件の戦以来、気が合わないと思う度にあの光景と言葉なんかがフラッシュバックしてしまう。あの時、絶対に相容れることは無いだろうと思っていた石田さんにまさか私の悩みを見透かされているとは思わなかった。今この時も彼のすることの真意が掴めない。それが殊更に、私を惑わせた。

 心臓が、どくどくと脈を打つ。妙な汗が滲んできた。伏し目がちに横目で此方を見ている石田さんが視界に入るだけで、苦痛に耐えながら私に言葉を発したあの姿が思い出されてしまう。「貴様の全てを否定するぞ」と問われた時、あまりにも痛い所を突かれて泣いてしまいそうだった。
 そして同時に、本当に私が最も恐れていたのは自分を否定されることなのだと気付かされた。
 私は嫌な人間だ。心の奥底では、自分の所為で数え切れない人が死んで逝くことよりも自分の存在を認めてもらえないほうが怖かった。だからこそ、指揮を投げ出さなかったのだ。この世界は自分の知らない世界だからと言い訳して、人殺しから目を逸らしている。

「っ」
「貴様、先程から何を一人で百面相している。赤くなったり青くなったり、忙しい奴だな」

 苛立ちを含んで石田さんの言った言葉が、私をまるで綱渡りでもしているかのようなアンバランスな精神状態から引き戻した。もしかしたら、疲れているのかもしれない。此処は現代と勝手がまるで違うし――それに、色んなことがあり過ぎた。
 もういい、と言わんばかりに深く溜息を吐くと石田さんは畳んでいた布団を広げ始めた。やはり豊臣さんに安静にするよう命じられていたのだろう。本当はそういった事は侍女にやらせるのだろうが、他人任せにしないのは几帳面な彼らしい。

 私に向けられた石田さんの背中には、出て行けと表れているようで。怒らせてしまっただろうかと申し訳なく思えてくると同時に胸の奥がきりきりと痛んだ。私はどうすればいいのですか。それを彼に訊ねたところで、果たして答えは返ってくるのだろうか。私の口は、ほぼ無意識にその問いを目の前の背中に投げ掛けていた。
 (この時私の頭には「自分がこの時代の住人ではない」と言っていなかったという事が見事に留められていなかった)

「石田さん、私はどうすればいいのでしょう」
「・・・貴様、まだ居たか」
この時代を、戦を知った私は元の時代に帰れるでしょう、か
「何だと?」

 何故だろう、まるで此処が夢の中なのではないかと疑うほど意識がふわふわとしている。自分が発する言葉にも、今一つ現実味を感じられない。寝惚けている時のようだ、なんて思いつつ紡がれた言葉は蚊の鳴くような小さい声で。だというのに耳聡い石田さんは、私の言葉に目を見開かせて驚きの表情を露にした。ああ、彼のこんな表情はあの時、あの戦場で見たものと同じだなんて、ふと思う。

 体に力を込めることさえやり方を忘れてしまったかのように出来ず、畳は直ぐ其処まで迫ってきていた。駄目だ。そう思うが早いか、瞬間、私の視界は暗く染まり意識がぶつりと途絶えた。痛みは感じない。むしろ、不思議と温かかった。こんなにも彼の言動で私の心はきりきりと締め付けられ、掻き乱されてしまう。窒息してしまいそうなこの感情が一体何なのか、気付いてしまった私は恐ろしくて知らないふりをした。どうして。あんなにも、好きになれないと思っていたのに。いや、既にそう「意識」してしまっていた。

 ああ、私はきっと、








我が息の根を止めん
ほらこんなにも、胸は苦しいというのに




(110122 執筆/110215 掲載 自分の気持ちに気付いてしまったヒロイン。けれどそれを意識してしまえば、生きる時代が違う自分達では余計に辛くなってしまう。だからこその「知らないふり」。さて、もうそろそろ物語も折り返し地点ですね)