眠い。私は直感的にそう思った。まだあと少しでもいいから寝かせて欲しい。思えば思うほど、私の名を呼ぶ声が一体誰のもので、何故そんな必死に私を呼ぶのかを判断出来るほど意識を向けることはなかった。声の主の性別すらも分からない。ただ、まるで遠くへ引っ越してしまった友人と久しぶりに再会した時のようにどうしようもない懐かしさを覚えた。ひどく心地の良い、声だった。

 早く起きて。そう言われている様で、ふと、もしかしたら長いこと眠り続けている私を起こそうとしているのではないかと思った。そうだ、私の現代での記憶は眠りについたところで途絶えている。途端に声が途轍もなく恐ろしいものに思えてきて、私は必死に声から逃げようとした。けれど声はいつまでも響いてくる。無駄な足掻きなのだと、嘲笑っているかのように。
 帰りたくない、帰ることはできない。人の断末魔の叫び、死の臭い。その記憶を知らん振り出来る自信なんて、私は持ち合わせていないから。周りと自分とが違うと、意識してしまいそうで怖い。
 「」 声は切なげに私を呼んでいる。もしかしたらそうやって油断させておいて私を現実に、生きるべき時代に連れ戻そうとしているのかもしれない。嫌だ、嫌だ、嫌だ!――気付けば私の心の中は、ひたすらそれで埋め尽くされていた。帰りたいと、確かにそう望んでいたはずなのに。いざとなれば、私はそれを拒んでしまうのだ。

 私の生きるべき場所は、何処なのだろう。
 現代は、間違いなく私の「帰る場所」だ。帰れない、帰るのが怖い・・・まるで子供が駄々を捏ねる様に何度もそう繰り返す中に、違う感情が混ざり込んできた。帰らなければならない。あそこには、家族や友達が居る。良くしてくれる先輩や、一緒に悩んでくれる先生が居る。行かなければならない。此処に居てはならない。何故なら此処は、私の生きるべき場所ではないから。
 「私はどうすればいいのでしょう」というその言葉が私の口を衝いて出たのは、きっと深層心理で迷い続けていたからなのではないのだろうか。帰りたい、帰りたくない。感情は入り乱れて私の中をぐちゃぐちゃにしてゆく。

 ふと、細くて孤独で、そして嫌気が差すほど純粋な彼の後ろ姿が目に浮かんだ。

 ――もしも向こうの世界、現代を選ばなかったとして。私は、たった一つのこの私的で大切な感情のために長年自分を支えてきてくれた人達の居る現代を捨て切れるだろうか。逆だとしても、現代に帰ったところでこの感情を綺麗さっぱり忘れ去ることなど出来るだろうか。私はきっと、どちらを選んだとしてもその選択を後悔してしまうだろう。心の底から良かったなんて思うことはきっと出来ない。未練がましいと思われても仕方が無いと、我ながら自嘲気味な笑みが漏れてしまう。
 もしかすると、こんな性格だから自己犠牲的な考えを受け付けられないのかもしれない。ああ、卑屈な自分が嫌になる。

 「

 何もない、無の世界に先程までとはまた別の私を呼ぶ声が響いた。あの切羽詰ったような声音とは対照的で、まるで何も感情が込められていない。けれど何故かその声は、先程のそれよりもまた更に遠くから響いてきたように感じられた。行かないで。確かにそう言ったつもりだったのに、言葉が声となって発せられることはなかった。





 体のあちこちの感覚が徐々に蘇ってくる。
 きっと覚醒が近いのだろう。瞼の裏で、まるで火花のように光がちかちかと弾けた。関節が痛む。長時間同じ体勢でいた時の、あの倦怠感が私を包み込んでいた。しかし私の意識が向けられたのは、そんな疲労感などではなくて。嫌な汗が背筋を背筋を伝ったような気がした。私の手の平が触れているのは、この耳に響いてくる音は。
 音が聞こえる。それも、竹刀や木刀を打ち付け合っているようなものではなくて。形容してみるとするならば、「機械的」だ。ああ、久しぶりに聞いた。
 恐る恐る、瞳を開ける。

「帰って、来た」

 悲しい位に見覚えのある場所で、私は目を覚ました。
 あまりにも唐突過ぎて、ただそれだけしか言えない。間違いなく、此処は私の部屋だ。タンス、テーブル、窓の外の景色。全てに「当たり前」とでも言うようなな感情が込み上げる。
 私は倒れこむようにして布団の上で横になっていた。部屋には夕日が差し込んでいる。どうして。私が迷っている間に、向こうの世界は勝手に私を弾き飛ばしてしまったというのか。
 ああ、矢張り世界は理不尽だ。

 もしかしたら今までの体験は全て夢だったのかもしれないなんて、今更思えなかった。思わず力を込めた右手には、旅に同行していた携帯電話があって。そっと開けば、やっぱりバッテリーの残量は一だった。ただ違うのは、日付が、向こうの世界で初めて目覚めた日の、前日になっていたということで。
 つまり私が向こうに居た間の時間が「全く経っていない」ということを意味していた。一炊の夢、なんて嫌な言葉が頭に浮かぶ。いつも通り学校から帰ってきて、疲れていた私は制服から着替えもせずに一眠りしてしまった。そして夢を見た。ただそれだけ。

「嘘」

 自分の出した答えだというのに、否定の言葉が勝手に口から漏れる。ぽたり。私の頬を伝ったものが布団に落ちて小さなしみを作った。こんな状況で泣いてしまうなんて、まるで映画のワンシーンみたいだとまるで他人事のように思っても、涙は留まることなど知らないというように流れ続ける。ほら、やっぱり泣いてしまった。いや、これは後悔なんかではない、だって選ぶ権利なんて大層なものは、はなから私になかったのだから。たとえ気休めにしかならなくとも、そう思うことでどうしようもない怒りが一瞬でも悲しみを隠してしまえばいいのにと、そう思った。けれども、涙は溢れる。

 矛盾している。
 こんなにも涙が溢れているのに、人生の一部を過ごした異なる時代が恋しくて堪らないと云うのに。それでも、「やっと帰ってこれた」なんて安堵している自分も居るのもまた紛れもない事実なのだから。ふとした瞬間にも、居るのかどうかも分からない不確かな「神」とかいう存在に縋ってしまいそうな自分が居て、そしてまた、それを必死に抑え付けている自分も居る。私の中の天秤は、未だに宙ぶらりんのまま答えを出し切れずにゆらゆらと揺れ続けているのだ。





 気が付けば、私はただ我武者羅に夕日の差す世界に飛び出していた。
 何も考えずに家を出るとか馬鹿だなあ、私。なんて思いながら、特に行くあても無く、とぼとぼと知らない道を歩く。右手には携帯が握られたままで、服装も制服から着替えていない。擦れ違う人達の目に、果たして私はどう映っているのだろう。手ぶらの女子高生、なんて変わってる。きっとただそれだけだ。皆、今の自分の生活に一生懸命で他人の事になど構っていられないから。

 ふと、目の前に踏切が見えてきた。
 そいつはただ只管に音を鳴らして間もなく電車が来るのだと知らせていたが、私はそれに一瞥もくれてやらず、電車が来た所に飛び込めば、あるいはまたあの時代に行けるかもしれない、だなんて馬鹿馬鹿しくも僅かな望みを見出していた。全く、これではただの頭のおかしい自殺志願者の考えだ。

「・・・は、」

 我ながら、自分の思考回路を疑ってしまうような現実味の無い「もしも」である。もしも、此処で死ねばあの時代に戻れるかもしれないなんて。そんなことをしてしまえば、私はこの時代に二度と帰れなくなると云うのに。頭のイタイ子じゃあるまいし、と私は身震いすることで己に対して嫌悪感を露にした。馬鹿馬鹿しい、と先程までの私の考えを一蹴する。
 私は何て馬鹿な事をしていたのだろう。これでは自制心を知らない小さな子どもと同じではないか、と落ち着き始めた心中でそっと溜息を吐く。どうやって家に帰ろうか。相も変わらず掌の中に握られたままの携帯電話に視線を落とした。心配を掛けているかもしれないし、先ずはお母さんにメールか電話をしよう。思いのほか遠くに来てしまったようだが、いざとなれば人に道を聞けばいい。

 まだ電車は来ない。
 どうやら、この踏切の警報機は随分とせっかちらしい。こいつを渡ってやる必要は無いのだが(家に戻るのなら此処を渡れば逆方向になってしまうし)、お母さんに電話でもしようかと取り敢えず足を止めた。携帯電話を開く。そしてボタンを押そうとすると、それとほぼ同時に着信を知らせるお気に入りの音楽が鳴った。待ち受けには、お母さん、の文字が表示されている。受話器のボタンを押して、耳にあてた。

 「ん、大丈夫、今帰るとこ」 安心させるようにそう言うと、向こうからは今日の夕食の献立と共に、早く帰っておいでというような言葉が帰ってきた。相槌を打ちながら、通話を切るタイミングを窺う。すると最後に、「、出かけるならちゃんと言ってからにしなさい」と、どこか聞き覚えのある台詞が付け加えられて、電話は切れた。向こうの時代で聞いた留守電と、全く同じトーンと口調だった。
 電車の音が聞こえてきたのは、通話を終えて数秒経ってからのすぐだった。キイイ、と音を立てて近付いてくる電車に、私はやって来た道を戻るため踵を返そうとした。

 その時。

 踏切と線路を挟んで向かい側、見覚えのある後ろ姿が見えた。

「!!」

 この時代に居るわけがない彼の背中。所詮は単なる幻だろうなんて、冷静に判断できる余裕は単細胞な私には無かったらしい。電車が迫っている、けれど、きっと今なら間に合う。この電車が過ぎ去れば、その後ろ姿も消えてしまうのではないかと勝手に思い込んで、私は遮断機の下を掻い潜り、線路の向こう側へと駆け出した。途端に、電車の警笛が私の鼓膜をこれでもかと言うほど震わせる。
 なんとか電車との接触事故は免れたが、少し危なかった。当たり前のことではあるが、無事渡り切ったとはいえ私への衝撃はそれなりに大きい。頭が、耳がずきずきと痛む。思わずその場に屈んで、暫しの間瞳をぎゅっと瞑っていれば、徐々に痛みは鎮まり、私はそっと立ち上がりながら瞳を開いた。





「―――っ」

 声にならない叫びが込み上げてきて、意味も分からぬままにそれをかみ殺す。ただ呆然と、私は自分を取り巻く世界をぐるりと見渡した。そっと左手で触れてみた自分の右肩は、自身が小刻みに震えているのだと私に教えた。折角立ち上がったというのに、私はまた再びその場に崩れ落ちそうになる。
 確かに、彼の後ろ姿はそこにあった。そう、あるのだ。代わりに、先程までの無機質な物は何一つ無くなってしまっていて。私が踏み締めているこの地面は、いつの間にアスファルトに覆われた道路でなくなったのだろう。あの電車の走る音や踏切の警報音は、何処にいったのだろう。私は、目の前に聳える大きな城を見上げた。見たことがある。間違いない、大阪城だ。

 ああ、どうしよう。
 後悔や困惑と云った感情よりも、安堵の溜息が先に漏れてしまうなんて。たとえ現代では一瞬しか時が刻まれていなかったとしても、この時代で過ごした時間は夢などではなかったのだ。もしかすれば、この時代と現代との間は何度でも行き来することができるのかもしれない。そんな期待が頭を過ぎった。
 ――彼は、石田さんは確かに目の前に存在していて、幻なんかではない。湧き起こる歓喜を必死に抑え込みながら、私が恐る恐るその後ろ姿に声を掛けようとすると、タイミング良く、何か感じ取ったのか彼は此方に目を向けた。

「!?っ貴様!」

 何故此処に居る、と続けられた彼の言葉に周りの視線が此方に集まる。よく分からないが、やはり此処の人達からすれば私は突然現れたように見えたのだろう。もしかしたら気味が悪いかもしれない。けれど今の私には、周りからどんなふうに思われていようがどうでもよかった。現代に行けた、そして此処にまた戻って来れた。それで十分だ。
 かちゃり。その音に改めて周りを見渡せば、どうやらこれから何処かへ出陣するらしくいつかと同じように甲冑に身を包んだ男達が綺麗に列を作っていた。何処に行くのだろう、とまるで傍観者のように冷静に考える自分の頭が不思議ともう恐ろしくなかった。一度現代でうんざりする位に苦悩したからだろうか。もしかしたら、踏切に飛び込んだところあたりから頭の螺子が一本何処かへ落としてしまったのかもしれない。

 突然、私の腕が強い力に引かれると同時に視界ががくんと動いた。驚いて私の手首を(血が止まるくらいに強く)掴む手の元を辿ると、鬼面顔負けの形相で此方を睨む石田さんが居て。「来い!」 痛い痛い、とわざと声に出してさり気無く反抗を試みてみたが、私のことなどどうでもいいのかそれとも聞く余裕が無かったのか、反応は無かった。嘘じゃないのにな、と頭の片隅でそっと呟く。彼に掴まれた手首と、突き刺さる兵士達からの視線が痛い。なんて、ね。
 石田さんに引っ張られるまま後を付いて行くと、前に見た時とは違い人影一つ無い鍛錬場で彼は歩みを止めた。確か、前に遠目で見掛けた時には沢山の兵士達で賑わっていたような気がするのだが。(ああ、そういえば兵士達は先程の所に集まっているのか)

「貴様、何故あそこに居た」

 紡がれた言葉は先程とほぼ変わらないというのに、喋り方は何か押し込めたように淡々としたものだった。何故、と言われても。どう答えようか、と私は少し考え込む。そもそもどうやって(一時的ではあったが)現代に帰ったのか、その前後は大方しか把握していないし、此方に戻ってきた時だって同じようなものだったのだ。何故戻れたか、それを何度自分に問い掛けたところで分かるはずなど無い。
 そう結論付けた私が答えを返そうと口を開いた瞬間、目の前に鈍い光を放つ「何か」が向けられていた。勿論この場に居るのは私と石田さんだけだし、それを持っているのが誰かなんて少し考えれば分かる。なにこれ。真っ白になった頭が、辛うじてその言葉を紡ぎ出した。

「問いを変える。貴様の帰るべき場所とは、何処だ」
「、え」
「この四日間、眠りの中で貴様はその場所に帰っていたのか?」

 四日間、眠っていた。私はその言葉に少なからず驚いていた。だって私が現代に戻っていたのは夕暮れ時の、それも日が暮れる直前までだったのだから、長くても一時間ほどしか留まっていなかったはずだ。しかし動揺する傍ら、ああ、やっぱりか、なんて納得という形で私の頭は冷静さを取り戻し始める。現代に戻った時だって、此方で過ごした時間は一睡の間に片付けられてしまったのだ。とはいえ、私はてっきり、此処に戻って来たら全てが続きからだと思っていたのだが。けれど、だからこそこの「時間の経過」が嬉しい。夢じゃないのだと、改めて今私を取り巻いているこの世界が優しく慰めてくれているような気がしたから。

 向こうの世界へ私を返しておきながら、こんなにもあっさりともう一度受け入れてくれるなんて本当に優しいんだね。笑いが、漏れ掛けた。じゃあ私を生まれてからずっと住まわせてくれていた向こうの世界の素顔は、なんて薄情だったのだろう。勝手に私を弾き出して、帰って来た私をまた跳ね除けて。――いや、確かに初めてこの世界に来た時は私の意志じゃなかったかもしれない。自分に起こったことが分からなくて、どうして私が、と不確かな存在でしかないのに神様が恨めしくて、腹立たしくて。けれど、あの踏切に踏み出したのは間違いなく私が自分で決めたことだったじゃないか。ぞくり。その事実に気付いた途端に、私の頭は嫌な推測を立ててしまった。もしかして。

 そんな私を余所に、眠りの中で帰っていた、なんてどう考えても「現実に起こるわけがない」、「非科学的な」言葉を並べ立てながらも独り善がりに聞こえそうなそれは何か確信めいたものがあるらしく、石田さんはいつも以上に冷たい光を瞳に宿らせながら、言葉を続けた。

「貴様が、秀吉様に命を捧げると、その身を尽くすと誓ったのは虚言だったのか!?秀吉様から賜った居場所は、貴様が望んで得たものではなかったのか!?」
「私は、」
「もう一度聞く!貴様の帰るべき場所とは、何処だ!」

 私は言葉を失って、視線を彷徨わすことしか出来なかった。一体、彼は私の事をどう思っていたのだろう。突然自分の崇拝する人物の城に現れた怪しい女。そして自分が刀を振るう軍に居座り、力を尽くすと言ったおかしな女。よく知りもしないくせに戦で出て、血や屍に勝手に惑って震えて、存在を肯定して欲しいとほざいた欲張りな女。・・・きっと、どれもそうなのだろう。私の帰るべき場所。そんなの、決まっているじゃないか。簡単過ぎるその問いに、私はまるで肺を何かに握られているかのように息苦しくなってしまった。けれど、もう迷う必要は無い。向こうに戻った時に嫌というほど迷って悩んだし、そもそも、もう迷えない。迷う資格なんて、無いのだ。

「私の居場所は、間違いなく豊臣軍です・・・っ確かに、私は一度帰るべき場所に帰った。けど、此処が忘れられなかった!」

 自分がおかしいかもしれない、なんて今はもう確信に変わっている。私は、おかしい。こんな非現実的なことに巻き込まれて、きっとおかしくなってしまったんだ。我ながら、なんて矛盾したことを言っているのだろうと罵りたくなる。まるで小説か何かのワンシーンで主人公が言い放つような台詞を一口に言い終えると、私は自分に向けられた刀を手の甲で退けて石田さんに一歩近付いた。「あの踏切に自分の意思で踏み出した時点で、私は向こうの世界を捨てていたの!」 私の立てた推測は、本当の事を言えば私の中では既に確かなそれへと変わっていた。つまり私は、ほぼ無意識の内に帰るべき場所を放棄していたのだ。それなのに、もしかすれば行き来できるのかもしれないなんて期待して。自分の馬鹿さ加減に泣けてくる。

「家族も友達も、みんな帰るべき場所と一緒に置いて来ちゃった。・・・そうしてまで帰りたいと思った場所が、豊臣という私の居場所なんです」
「・・・・・・」

 石田さんは、どうやら「居場所」を「帰るべき場所」だと思っているようだが、二つの世界を知った私はいつの間にか、それらを分けて考えるようになっていたらしい。居場所は、帰りたい場所。帰るべき場所は、戻らぬことは許されない場所だと。全く、現実主義者の私は何処に行ってしまったのだろう。一昔前は、物語の自分の大切なものを犠牲にするような主人公は大嫌いだったというのに。よく泣くヒロインなんて、もっと嫌いだった。けれど今の私は、そのどちらにも当てはまってしまう。要するに、私はもしも目の前に自分が居たら引っ叩いてやりたかった。いつのまにか、先程石田さんの刀を退けた左手がその刃を握っていた。認識すると同時に手の平が熱を持ったように痛みを訴える。いよいよもって、自傷行為だなんて最悪のタイプだと内心嘲笑した。

「私の居場所は・・・っ豊臣、しか」
「もういい」
「豊臣しか、ないんです・・・!」
!」

 驚いて、私は思わず口を噤んだ。彼が私の名を呼んだのは、これで二度目だ。(一度目とは、あの戦場のことである) いい加減私の反応が鬱陶しく思ったのかもしれない、なんて自分で自分が嫌になった。次の瞬間の侮蔑的な言葉に備えて内心身構える私であったが、それに対し石田さんはそれっきり黙りこんだまま一言も発しなかった。よく分からない沈黙が少しの間続き――この間が、私には異様なほど長く感じた――「あの、」 どうしたものかと、私は戸惑いがちに彼の方へと汚れていないほうの手を伸ばした。肩に触れかけた手が、そのまま静止する。きっと、触れた所で人間嫌いの彼が私を拒絶することは目に見えていたからだ。居場所を失ったその手は空中を彷徨っており、何故だか私の眼にはひどく滑稽に映った。届きそうで届かない、触れたいのに触れられない、そのさまが今の私のようで無性にもどかしい。見ていられなくて、私は瞳を伏せた。

 瞬間。突然手首に感触が伝わってきて、私は弾かれたように視線を戻した。彼の、黒い籠手に包まれた手がまた私の手首をきつく握っていた。あ、と言葉にならない声が勝手に喉から漏れる。触れたいと、そう思った手の平が私に触れていたことに嬉しいというよりも先ず驚いた。届かないと諦めていたからだろうか。すると、ぐっ、と手首を締め付ける力が強くなり、私は抵抗する間もなく引っ張られた。私は慌てて目を閉じる。危ない、彼にぶつかってしまう! 私の脳が下した判断は、そんな危険を予知したものだった。
 ――しかし、私の予期していた衝撃はくることもなく、代わりに頭へとのせられた硬い手は、慰めるように撫でるわけでもなくただそこにあった。(ただ、引っ張られるという力が働いていたためその手とぶつかってしまった頭が少し痛い)

「帰るべき場所は捨てた、自分の居場所は豊臣だ、と。そう言ったな」
「、はい」
「・・・これより、貴様の帰るべき場所は豊臣だ。異論は認めない」

 気のせいか、彼が薄く笑ったような、そんな気がした。








君が涙を拭わん
冷たい無機質な貴方の指が、そっと目尻に触れる。




(110322 長い。これ一話にとんでもなく時間がかかった)